親子3代ストーリー

日本一親切な外壁塗装専門店の中根喜一郎(なかねきいちろう)

はじめまして!
「あたりが柔らかくて、信用できる人だなぁ」と言われる、
日本一親切な外壁塗装専門店の中根喜一郎(なかねきいちろう)です。

「家も塗装すると、気分も変わりますね」と家族が“笑顔”になることが、わたしのよろこびです。
そのために、「ちょっとしたことでも丁寧に納得いくまで説明してくださった」と言われるように、心がけていきます。

なぜ、わたしが
【親切】を使命と掲げているのか、
そのワケを聴いていただけますか?

しらかわ工芸社誕生秘話

父は愛知県岡崎市生まれ。祖父は商売をしていました。父が小学4年生のころ、祖父が亡くなりました。お酒が大好きで、戦争中お酒が手に入らなくて、薬品のアルコールを薄めて飲んでいた、と父が祖父の話をしてくれました。

小学校のころから、父は習字が上手でした。当時、習字を習うほどお金がなかったので、学校の授業の中で習うだけ。また、習字を練習する半紙もないので新聞紙に習字を書いていました。何度も何度も新聞紙に向かって練習をする。

習字が好きだった父は、自分の好きな道に行きたいと思い、看板屋になりました。看板屋さんに修行にいき、その後独立しました。

ところが、知人の保証人になったことから、その借金を背負い、倒産。頼まれると断れないお人好しのところがあったのです。

母の親戚が神戸にいたので、「神戸に行こう」と。家族そろって夜逃げです。

家族五人で、ある日、突然神戸に来ました。わたしは「旅行に来たのかな」、「みんなでどっか出かけるんだなぁ」と思っていました。

おかしいなと思ったのは、「アパート?ここで寝るの?ここで暮らすの?岡崎に帰らないの?」と気がついたときでした。それで、「あぁ、ここで暮らすのか…」とやっとわかりました。

岡崎にいた時は、二階建ての一戸建でした。それが、神戸に来たら六畳一間のアパート。そこに家族五人全員いる。しかも、木造のボロく汚いアパート。

不思議と、不安はなかったのです。同じアパートに、同じような年代の子がいて、子供たちと遊ぶのが楽しかったのです。父も母も、仕事に行っていたので、ほとんど家にいない。わたしは学校に行って帰ってきたら、子供たちと遊ぶ。

子供ながらに、「うちは貧乏だな」と思っていました。お米は一番安い標準米。おかずは無いときもある。しょうゆをご飯の上にかけて、ぐりぐりっと混ぜて食べる。ときには、塩をかけて食べる。それでも不満はなかったのです。
「おいしい!おいしい!」と言って食べていました。

中学3年生の頃、ちょうどオイルショックでした。今度は、海沿いの漁師さんの家の部屋を間借りすることになりました。最初、「えっ!どこに来たんだ?」と思いました。

父は、また保証人になったのです。再度借金を背負い、アパートを出る。今度の家は、古くトイレも外にある。嫌で嫌でしょうがなかったです。

同じ校区内だったので、学校は変わりません。それでも、友達には恥ずかしかったです。落ちぶれた、という感じでした。

ところが、住めば都。漁師さんもいい人でした。そこの子供とも仲良くなり、一緒に釣りをしたりして楽しく暮しました。

それから一年後、神戸市の市営住宅に当りました。海沿いの場所から離れた、白川台という山を造成して作ったニュータウン。「市営住宅が当たった!!」と父も母も大喜び。

新築の市営住宅なので、まっさらの鉄筋コンクリート。今までは木造の古いアパートです。もう、すっごい、天にも昇るような気持ちでした。部屋も2DKで3部屋ある。広くはないのですが、とても嬉しかったです。ちょうどわたしが、高校1年生。金持ちになったような気分でした。

それから、父は、白川台に住むので「しらかわ工芸社」と会社の名前を変えました。看板の仕事が少なくなってきたので、外壁塗装に力を入れ始めました。

ニュータウンのため、一戸建てがいっぱいある。父はチラシを書いて配ったり、飛び込み営業もしていました。これが「しらかわ工芸社」の始まりです。

あっ!おやじがいる~父の想い

小学1年生の時、わたしはなぜか夜寝つけない時がありました。そんな時、父は子守唄を歌ってくれました。「出た出た月が」というお月さんの歌。わたしの横でよく歌ってくれました。すると、決まって気持ちよく眠るのです。

父は、時間のある時に、一緒に字の練習をしてくれました。「こう書くんや」と、父が鉛筆で習字のお手本を見せてくれました。父は看板屋だから字が上手い。おかげでわたしは、学校のお習字のコンテストでは、金賞や銀賞をもらいました。先生から「中根君は字が上手」と言われました。

急に神戸に来て友達も少ないので、父は、わたしがかわいそうやなぁと思ったのだと思います。仕事は忙しくしてましたが、少ない時間でも、ちょこちょこわたしの相手をしてくれました。わたしはお習字のコンテストで賞をもらってから、元気を取り戻してきました。

父は、仕事から帰ってくると、安いお酒と鶏がらをしゃぶりながら晩酌をしていました。わたしも鶏がらをもらいました。それが、おいしかったのです。晩酌をしながら、父は、「学校楽しいか?」、「何か欲しいものないか?」と気にかけてくれました。

ある時、わたしが「地球儀がほしいなぁ」と父に言ったのです。友達の家にあったのを見て、欲しくなったからなんです。でも、わたしの家は貧乏だから無理かなと思っていました。

ところが、小学4年生の時、父は、立体的な地球儀を買ってきたのです。山のところが凸凹した、高いものです。「すごいの買ってきたなぁ!」と、わたしはびっくりしました。

父も母も毎日二人とも塗装工事の仕事。そのため、小学校の頃、両親は運動会を見に来ることはありませんでした。友達のお父さんやお母さんは見に来ていました。いつも、うらやましいなぁと思っていました。

わたしは足が速かったのです。徒競走とかリレーで、父に足が速い姿を見てほしかったのです。ところが、見に来てくれないことが、淋しかったです。

小学6年生、最後の運動会の前日。わたしは「明日運動会やで」と話しました。父は「そうか、明日運動会か」と言いました。

運動会当日。グランドのブロック塀から、顔がひょこっと出てたんです。「親父がいる!ブロック塀から覗き込んでる!」と、とても嬉しかったんです。仕事を抜け出して見に来てくれたのです。わずか数分、ずっと見ててくれた父の姿が忘れられません。

大切なものなら、しまっときなさい!~母の教え

母は、生まれ育ちは新潟県。二十歳くらいに集団就職で、愛知県安城市の紡績工場に来ました。そこで、父と知り合いました。

父は、母の会社宛にラブレターを書いたのです。「〇月〇日に、〇〇〇でお会いしませんか?」とデートの誘いです。母は、住込みで寮に入っていたので、会社宛に送るしかなかったのです。父の影響なのか、わたしも中学のときに、ラブレターや交換日記を書いていました。

母の作る玉子焼きは、特別でした。”お母さんの玉子焼き”は、どのうちでも美味しいものです。でも、母の玉子焼きは、格別に美味しかったです。子供のころから、母が死ぬ間際まで、作ってくれました。結婚してから、妻が、「お母さんの玉子焼きみたいな味にはならない」とこぼしていました。

家からバスに乗って3つ目が、繁華街でした。デパートとかスーパーとかあり、そこに行くのが楽しかったのです。デパートの地下に喫茶店があり、母とそこでホットケーキを食べたりしました。小学校のころ、母と一緒にデパートに行くと、なにか食べさせてもらえるという楽しみがありました。

母も、父と一緒にいきなり神戸に来たので、知り合いが少なかったのです。それで、母も、子供と一緒に過ごす時間が楽しみだったのかもしれません。

小学4年生の時、母が授業参観に来てくれたときのことです。先生が課題を出して、生徒が1回手を挙げて答えると1枚シールを貼る。手を挙げた数のシールを貼ったものが、教室の後ろに張りだしてあります。

わたしは当時、大人しく、引っ込み思案でした。そのため、手を挙げる回数が少なかったのです。友達の中でもシールが少なかったのです。

その日、母が授業参観に来るので、シールが少ないとかっこわるいと思いました。そのため、答えがわからなくても、真っ先に手を挙げました。頑張っているところを見せたいと思ったのです。

小学生の時、キャラメルのおまけに付いてくる、ちっちゃな人形を集めていました。その怪獣のおもちゃとかで遊ぶのです。ところが、おもちゃの後片付けをせず、部屋に出しっぱなしにして、学校に行ったりしました。

ある日、学校から帰って怪獣のおもちゃで遊ぼうと思ったら、ないのです。

「怪獣のおもちゃ、どうしたんや?」と母に聞きました。すると、母は「捨てた」と。ものすごく腹が立って、「なんで捨てるんや!」と言ったら、「そんな大切な物やったら、ちゃんとしまっときなさい!」、「ほったらかしにしてるから、いらんと思って捨てた!」と。

「えっー!」と思いました。すごく悲しいというかショックでした。コツコツ集めた怪獣のおもちゃがなくなっているのは、ショックでした。母は、大切な物でも出しっぱなしにしてると、すぐに捨てるのです。

社長になってからも、「そんな大切な物だったら、ちゃんとしまっときなさい!」という母の言葉、とても大事にしています。

それなら、もう学校やめます…

幼稚園のころは、見知らぬ神戸、わからない関西弁に悩み、行きたくありませんでした。それでも、母に無理矢理、幼稚園に連れて行かされました。泣きながら、母に引っ張られて行ったものです。

50歳すぎた時、幼稚園の同窓会で、久しぶりに会った友達に言われました。

「あの時の中根は、よくめそめそ泣いてたな(笑)」

小学5年生の時、少年野球チームに入りました。足が速かったので、運動会で学級対抗リレーに出ていました。そのころから活発になっていきました。

少年野球は、学校とちがって、仲間と一緒にやってる、優勝に向かっている、という意識がありました。監督も「今度の大会は三位以内に入るぞ!」、「優勝するぞ!」と言うのです。監督、コーチも社会人野球の選手で、社会人チームのユニフォームを着てやって来る。怒鳴られたりして、すごく厳しかったです。そういう緊張感の中で、みんなも、頑張ろう!と一丸となっていました。

そうやって、同じ思いで野球をやっていると、自然と仲よくなるのです。夏でも、暑い時に厳しい練習を一緒にして、「しんどかったなぁ」と言いながら家まで帰る。試合になったら、「今日は負けたな」、「今日は勝ったな」と。

野球の友達とは、学校の友達とはちがう、一つの団結力が生まれました。みんなで結果を出すんだ!とか、みんな悔しい!という気持ちでした。

中学校に入っても、部活で、野球部に入りました。

ところが、わたしは、面白いものがあるとほかのことを忘れて没頭してしまうクセがあったのです。おもしろいテレビがあると、野球部をサボって、テレビを見ていました。

野球部の友達が、「お~い、そんなとこで、テレビ見てたらアカンで」と家に誘いに来てくれるのです。

わたしは、テレビを見ていて「練習行かへん」と平然と断っていました。サボったことに対して、罪悪感とか全くありませんでした。自分の欲求を満たしてくれる楽しいこと、それが嬉しかったのです。

そのうち、何回か友達が誘いに来てくれたのに、断ることが申し訳ないと思うようになりました。

「こんなオレでも誘いに来てくれたのに…
友達をがっかりさせた。いい加減こんなことやっていたらダメだ!」

それから、野球を真剣にやるようになりました。「よし頑張るぞ!優勝するぞ!」という本気モードになったのです。

高校は、神戸高専に進みました。高校でも野球部に入りました。高専の野球部は、もともと弱く県大会の二回戦で勝つかどうか。しかも、部員も少ない。

高校生になったら、みんな楽しく遊んだりしていました。野球部の練習は辛かったです。クラブに入っていない友達に誘われると、楽しそうな方に行ってしまいました。結局、1年で野球部は辞めました。

高専の5年生の時です。やっと、就職が決まって「卒業できるな」と思っていました。ところが、卒業間際に、単位が足りないということで、先生に呼び出されました。「もう一年やり直すか?」と先生に言われました。

就職試験を受けて会社から通知が来て、横浜で研修だとか決まっていたのです。両親にも友達にも「おれは横浜に研修に行くぞ」と言っていました。

それが「お前は留年だ」なんて…

「就職が決まっているのに。もっと早く言ってくれよ」と怒りの気持ちがこみ上げてきて、目の前真っ白。もちろん成績が悪い自分に原因があるのですが、やり直す気力もありません。わたしは、先生に即答しました。

「それなら、もう学校やめます…」

先生は「やめるって、何するんや?」と言うのです。わたしは「何も考えてないです」としか答えられません。「地元の建設会社に先輩もいる。そこを紹介してやるので、そこに行くか?」と先生から言われました。

「親と相談します」とだけ言って、先生のもとを出ました。

卒業アルバムに写真も載って作文も書いた。そこまでしたのに、嘘みたいな話。親に、さらに授業料を出してもらうのは情けない。当時もう21歳、成人式も迎えていた。「もう大人なんだから、働かないといけない」と自分に言い聞かせて、高専を卒業間際に退学しました。

卒業アルバムは、その時の悔しさを忘れないために、いまも取ってあります。

わしは幸せもんだなぁ

高専を中退して、地元の土木会社に就職しました。仕事は楽しかったです。毎日あっという間に時間がすぎる。「働くって、おもしろいなぁ」と思う毎日。

ある時期、下水の工事を担当していました。その現場の前に保育園がありました。その保育園の保母さんの姿を、「楽しそうにしているなぁ」と思って、にこにこと見ていました。そのときの保母さんが、今の奥さんです。出会って一年くらいで結婚しました。

結婚して一年後くらいに、父は、三階建ての家を建てました。わたしたちはマンションに住んでいましたが、その家に、同居することになりました。

35歳のころ、ある日、父と母が、部屋で話をしているのを、廊下で立ち聞きしてしまいました。

「喜一郎は、今のサラリーマンの方がいい。商売して、俺みたいな苦労を喜一郎にはさせたくないから、跡は継がせない」
「兄弟三人とも、サラリーマンでやってくれたらいいわね」

わたしはその話を聞いて、衝撃を受けました。そんな大変な想いをしてまで、俺たちをここまで育ててくれたんだと。

「こんな大きな家を建てたりして、僕らのために頑張ってくれた。
今度は、子どもとして親父の仕事を手伝って、これまでの恩返しせなあかん!」

と思い、会社を辞める決断をしました。

わたしは「俺は会社を辞めて、親父の会社を手伝うから」と父に言いました。その時は、父は「そうか、わかった。頑張ってくれ」としか言いませんでした。

そして、わたしが跡を継いで、その後弟たち二人も、順番に父の会社に入ってきました。そのことを父は、実は日記に書いていました。

「こんな幸せなことがあるんだろうか」
「息子たち三人がわしと一緒に仕事してくれて、わしは幸せもんだなぁ」

父は、どちらかいうと無口でぶっきらぼうな人。ニコニコと大喜びする人ではありません。でも、心の中では喜んでいたことが後でわかりました。

わたしが35歳のとき、父の会社に入った翌年、あの阪神淡路大震災が起きました。それから二年くらいは、復旧工事の仕事で、忙しすぎて休みなく働いていました。

震災後三年ほどすると、急に目先の仕事がなくなりました。父と二人で仕事を探して、ずーっとよその家の周りをうろうろしていました。一番嫌な時期でした。

ある年、年明けの仕事が3つ必要なときがありました。2つは決まっていたのですが、1つ足りない。それなので、あるご家庭に目星をつけて、12月30日、その家の人が帰るのを車の中で待っていました。買い物から帰ってきたら、「よし行こう!」と。

夕方に帰ってきたので、「1月7日から仕事させてほしい」とお願いしました。以前うちで塗装してくれた人です。塗装してまだ10年も経っていなくて、7年くらい。それなのに「早く塗装した方がいいですよ。金額も特別の特別にしますから」と言いました。お客さんは「仕方ないな」と決めてくれたので、1月の仕事が決まりました。

父と二人でホッとして、「これで正月を迎えられるな」と思いました。

ところが、来る日も来る日も、仕事を探してお願いして工事をやってもらっても、結局赤字。職人の仕事が回っていくだけで、ひもじい経営でした。それでも、父は「職人には絶対給料払わなあかん」と言っていました。

自分たちの給料がなくても、「職人の生活を守るんだ」と。

なぜ、わたしは【親切】を使命と掲げているのか?

心のどこかに「親父がいる」という自分の甘さもあったのは確かです。わたしは、「親父がなんとかしてくれる」と思っていました。

現実は、営業に行って見積を出すと、断られる。なにか否定されている感じ。そうすると、「安くしないと仕事は取れないんじゃないか…」と思い、安い見積で受注するので利益が出ない。

近所で他の会社が塗装しているのを見ると、悔しくて、情けなくて。自分の力のなさも痛感しました。

ある時、ちょっと大きな家で、カメラ屋の社長さんの家に行って、父が言いました。「頼むからやらせてほしい。実は来週からうち職人の仕事が切れるんですよ」と。

ところが、「お前のとこの職人の仕事が切れるからといって、何でおれが塗装せなあかんねん!」とお客さんにキレられました。

ショックでした。みじめでした。訪問販売なんか大嫌いだと思いました。こんなことずっとしてたら大変だと思いました。

毎日、気が安まらない。職人の給料も、赤字ですから払えないのです。毎月郵便局へ行って、自分の養老保険を担保に、お金を借りてくるのです。それで職人の給料を払っていました。わたしたちの給料は、給料日に出ない。翌月に集金してきたら、生活費分10万円だけもらう。

妻は妻でいろんな支払いがありますから、「こんなんじゃ、足りない!こんなこといつまで続くの?」と怒り出す。

わたしも「お金ないんやから仕方ないやろ!」と言い返す。「そんなんじゃ困るわ!」、「困ると言われても無いもんは無いんや!」と夫婦げんかになってしまう…

震災後、仕事が減ってきたころから、長女、長男が大学へ進学。子供の教育費にどのくらいかかるかも、わからない。それを、子育ては、妻に任せっきりにしていたのです。

ふと冷静になると、俺は俺で頑張っているんだからという理由で、妻に文句を言う自分が情けなくなりました。

「頭ごなしに、嫁さんに押しつけているだけじゃないか…」

「自分のふがいなさを、嫁さんにぶつけているだけじゃないか…」

「オレは会社経営しているからしょうがないんだと、横暴じゃないか…」

そんな情けない自分を見ていると、父の会社に入ったとき、母から言われた言葉を、急に思い出しました。

「喜一郎。ワンマンになったら、アカンよ」

その当時は、母が言った意味が、わかりませんでした。ただ、心のどこかで、母の言葉が、ずっと気になっていたのです。

その瞬間、母が伝えたかったことが、やっとわかったのです。

わたしには、親切さ=思いやりが欠けていたのではないか…

小学校のとき、おまけに付いていた人形を出しっぱなしにして、母に捨てられたとき、「何で捨てるんや!」と腹を立ててしまった。

あの時、わたしに、母への親切さがあったとしたら…

中学のとき、野球部の友達が「そんなとこで、テレビ見てたらアカンで」と誘いに来てくれたのに、「練習行かへん」と平然と断っていた。

あの時、わたしに、友達への親切さがあったとしたら…

子供二人が大学に行っているとき、家に10万円しか入れないのに、妻に「お金ないんやから仕方ないやろ!」と横暴に振舞ってしまった。

あの時、わたしに、妻への親切さがあったとしたら…

そうなんです。わたしには、親切さが欠けていたのです。

この体験から、わたしは、【親切】を使命と掲げることにしました。

それから45歳の時に、チラシで集客することを本格的に始めました。

父がやっていた訪問販売では、いつもみじめな気持ちになってしまう。「これからは、あんな営業ではやって行けない」と思い、チラシにかけてみることにしました。そして、全国の塗装屋さんが集まっている会に入り、東京まで何度も通い真剣にチラシの勉強をしたのです。

おかげ様で、チラシの反響もよく、売上も安定していきました。

売上が安定するようになると、気持ちの余裕も持てるようになったのです。

そこで、まず社員を育てようと考えました。

塗装工事に行ったとき、ただ塗装するだけではなく、なにかちょっとした気になることを1つやってくるように、職人に伝えました。フェンスが壊れているとか、網戸が破れているとか、表札の文字が消えかかっていたら塗るとか。

なにか気になることを1つ、お客さんのために行うことを、何度も何度も、職人に伝えました。

そのうち、職人自ら、お客さんに「なにかご不便なことないですか?」と聞くようになったのです。そうすると、お客さんも「洗面所の戸がキイキイ音しているんだけど、いいの?」と言ってくれるようになったのです。

このようなことが職人に定着してくると、お客さんからの工事後のアンケートに、次のように書かれるようになってきました。

・「細かなところまで、親切にしてもらいました」
・「みなさん、とても親切な職人さんばかりで、ありがたかったです」
・「不要になったビン・カンまで持って帰ってもらって、そこまで親切にしてもらって、驚きました」

売上は上がるようになってきました。ただ、どうしたらもっと会社のことを知ってもらえるか考えました。そこで、会社のことをひと言で表すキャッチフレーズがないか、探していました。その中で、お客さんのアンケートに「親切」という言葉が多いことに気がついたのです。

そうか、使命に掲げていた【親切】がお客さんにも、伝わっていたのか!とても、うれしい気持ちになりました。そこで、「日本一親切な外壁塗装専門店」と名乗ることにしたのです。

46歳の時に、父が脳梗塞で突然入院しました。父の病気がなかなか治らなかったので、48歳の時に、社長に就任しました。その後、おかげ様で、知名度も上がり、売上も順調にのび、社員が20数人までの会社になりました。

そこで、あらためて、本当にお客さんのお役に立っているのか確認するために、「なぜ、わたしの会社に依頼したのか?」聞いてみました。

「人柄に魅せられて。人柄がええんでしょう(笑)」

「商売気のある人には、見えなかった(笑)」

「お会いしてからは、もう、中根さん一筋(笑)」

このように、私たちのことを感じてくれることが、とてもうれしかったです。

さらに、「塗装工事をしたことで、なにが良かったのか?」聞いてみました。

「家も塗装すると、気分も変わりますね(笑)」

「すごい達成感があります。こまかなことも何度も打合せさせていただくことで、自分も関わることができ、希望の家ができてうれしかったです」

「孫の代になったら建て替えんといかん。それまでは、これでええなと、ひと安心できたことが、なによりうれしいです(笑)」

このように言っていただき、あらためて、この仕事をやっていてよかったと、心から思えました。

さらに、お客さんは、職人や営業の人間についても、話してくれました。

「中根さんと一緒に来られる営業の桃井さん。中根さんといいコンビ(笑)」

「職人の川脇さんは、柔らかいし、説明も細かくしてくださって」

「中根さんが社員の方をよく教育されているから、真面目な人が多いですね。いつも挨拶してくださるし、仕事見てても丁寧だし」

このように、職人や社員のことを思ってくれたことが、一番のよろこびでした。

「ちょっとしたことでも相談しやすい会社があったらなぁ…」
と思っている方へ

「職人さんだったりすると、ちょっと、とっつきにくくて…」

「工事業者さんだと、お話を尋ねにくいところがあって…」

「押しつけがましくなく、柔らかく説明してくれる会社があったらなぁ…」

このような方に、この物語を読んでもらいたいと思っています。そして、「いろいろ細かなことも親切に説明してくださって、心配事もそのたびに解消されたらなぁ」ということを求めている方に相談されると、うれしいです。

そのためにも、【親切】を使命に掲げて行動していきます。

ここまでで、わたしの物語が終わりになります。

父からわたしにバトンが渡された「しらかわ工芸社」。じつは、つぎの物語が、すでに始まっているのです。

わたしの長男と次男二人が、今わたしの会社で働いています。一緒に仕事ができることが、なにより嬉しいのです。「わしは幸せもんだなぁ」と日記に書いていた父の気持ちが、手に取るようにわかります。

2013年の夏に、次男が、わたしの会社に入社しました。次男は、リフォーム班の職人です。とても器用なので、業者に頼みにくい細かな作業でもやってくれるので助かっています。お客さんからも「こんなところまでやってくれて、ありがたいなぁ」とよろこばれています。

次男は、「しらかわ工芸社」のトコトン親切で丁寧な職人魂を黙々と実践してくれて、ありがたいなぁと思っています。

大手ゼネコンに就職していた長男は、2015年4月に入社。2017年から社長を継いでくれています。

2011年、東日本大震災が起きたとき、長男は、大手ゼネコンの仕事で東北の現場にいました。多くのご家族が死に別れる姿を目の当たりにして、神戸の家のことを思い出したのです。

「おじいちゃんや親父が苦労してきたから、俺は今ここで元気に生きている。そして、しらかわ工芸社に仕事をくれた地元のお客さんがいたからだ」

「親や地元のお客さんに、感謝と恩返ししたい」

そう強く思い、長男は、大手ゼネコンを辞め、わたしの会社に入りました。

わたしとしては、まさか、うちの会社を継いでくれると思っていませんでした。その意味で、長男の決断に、感動とともに感謝しています。

わたしからは、ひと言。

「自分のやりたいようにやれ!」

最後に、

親父へどんなにつらく大変なときも
おれのことを気にかけてくれて、ありがとう。
小学6年生の運動会、ブロック塀越しに
おれのことを見ていてくれた姿、忘れられません。

母へ親父の会社が大変なときもいつもニコニコ。
お母さんのおかげで、家族が楽しく暮せました。
そして、自分勝手で、だらしないおれのことを
いつも導いてくれて、ありがとう。

天国から、われわれのことを見守っていてください。

中根喜一郎

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